50代という人生の大きなふしめに立ったとき。
ちょっとした瞬間に、後ろから冷ややかな目で見られているような、、、
そういう感覚がよくあります。
「今さら新しいことを始めても、もう手遅れでしょ?」
「あの時、別の道を選んでいれば、もっと違う景色が見えたんじゃないか?」
テレビとかSNSを開くと、
20代の起業家が数億円を稼ぎ出し(びっくり!)、
30代の実業家が世界を股にかけて活躍している(ご苦労様)。
そんな眩しすぎる記事を読むたびに、自分の残り時間とか、みるみる落ちていく体力を計算して、 勝手に絶望しちゃったり。
でも、
一つだけ言っておきたいのです。
今、感じているその手遅れって言う感覚。
それって、人生を取り戻すための最良のスタート信号かもしれない、と。
「何にでもなれる」という呪縛を解く
若い頃、可能性っていう病気にうなされてました。
努力すれば何にでもなれる。
どこへでも行ける。
スペックを上げ続ければ、
いつか「完璧な自分」に辿り着ける。
そう言うこと、信じてたんですね。
だけど、それって、逆に言うと迷いそのもの、だったのかもしれません。
Aを選べばBが気になり、
Bを選べばCを捨てたことを後悔する。
自分のことをあっちこっちに引き裂きながら、量産型の成功者を目指して無理して頑張ってきた。
50代になり手遅れを認めるということは、この無限の可能性という名の病気から卒業すること。
もう、プロ野球選手にはなれない。
もう、シリコンバレーで起業して世界を変えることはない。
もう、二十歳の若さを取り戻すことは不可能。
これを絶望っていうのかな?
違うと思う。
これは絞り込みです。
「何にでもなれる」から「これしかやらない」へ。
この考え方の修正が、 文章を書くことを始めるための最初の条件なんです。
新しいことを習得するか、今あるものを書くか
よくこんな言葉を聞くんですね。
「50代になると記憶力が落ちる」
「新しいことが覚えられない」
まぁ、、、、
私もそうで、
最新アルゴリズムや複雑なプログラミングをイチから暗記しようとすれば、20代には敵わない。
というか、、、叶うはずがない汗
でも、そこで戦う必要はあるのか。
50代が持つべき武器は、習得ではなく編集だと思うことにしてまして。
新しい知識を100覚えることは手遅れかもしれません。
(私は諦めました…)
でも、
今持っている10の経験を組み合わせて、誰も思いつかなかった1つの文章を生み出す。
こっちは、年齢制限はありません。
「稼ぐ」から「書く」への戦略的撤退
「もっと稼げ」
「もっと昇進しろ」
「もっと立派な親であれ」
そういう外側からの要求に応えるために、自分の色を塗り替え、空気を読み、よくある量産型の型枠に自分を押し込めてきた。
「手遅れ」を認めるということは、この他人の土俵からの戦略的撤退。
「私は、もうあなたの期待に応えるような、成功レースには参加しないよ」
そんな宣言して身を引いたら、心の中でビックリするほど自由を感じられました。
撤退した先に作るのは、誰にも邪魔されない自分の書き場所です。
自分がルールを決めて、自分が価値基準を決めます。
最新トレンドを追うこともないし、誰かに好かれるために自分を削る必要もない。
- 自分が本当に望んだ言葉を書く。
- 自分が本当にいいな!と思うリズムで書く。
- 自分が本当に大切だと思う人だけに向けて書く。
競争から降りた人だけが手に入れられる圧倒的な主導権。
自分の人生を、自分で選んでいる感覚が、自分の中に戻ってきます。
ひょっとすると負けのように感じられる撤退。
でもほんとは、自分だけの絶対的な聖域を作るための、いちばんまともな勝利なんだと思うんです。
なぜ今が、文章を始める最良のタイミングか
「もっと早く気づいていれば」と思ったりするんです。。
でも、30代や40代でこの境地に辿り着くのは、すごく難しいと思うんです。
残り時間が見える今だから、自分が何を捨てるか、何を残すかを選べる。
っていうか、選ばざるを得ない?
だって、残り時間は限られてるから。
この自由って、20代や30代の「何にでもなれる」時間には持てないんです。
「手遅れ」っていう感覚は、手放す勇気をくれるチケットのようなものかも。
「もう十分頑張った。ここからは、自分のために、自分の言葉だけを使って、好きなように書いてごらん」
そんな声が、手遅れという絶望の裏側に隠れているんです。
(勝手にそう思ってます!!!!!)
さて、、、
今日は何を書きましょうか。
どんな景色を言葉にしてみましょうか。